初めに覚えたのは、鉄錆の味だった。
会うたびに口付けてくるその唇を何度噛み切っても、彼は痛がりも背けるでもなく深く合わせ侵入してくる。
口内に広がるのは、血の味。
唇にも乗ったその色を見て彼はまた熱く息を吐いた。
きれいだね。と囁く言葉は出来るだけ記憶に残さないようにしているのに。

「…く…ッ」
酷く痛めつけられた身体は言うことをきかず、骸は壁を伝って足と手を引きずり部屋を移動する。
ドアを開け、まず一番近いユニットバスへ。
白で統一された部屋には花が飾られており、それを見て骸は眉をしかめ、また部屋をぐるりと見渡す。
(…換気扇は…やはりダメか…)
洗面台の扉を開けて排水溝を見ようとするが、ご丁寧にも溶接された檻がはめられている。
「……」
手身近なタオルを天井へと放り投げれば、かすかな電気がパリリと音を立てる。
「…結界とやらと一緒に電気を通しているか…やはり上からは無理だな…」
くそ。
口の中で呟き、しゃがんでしまいそうな身体を叱咤して足に力を篭める。
その時目の端をよぎった陶器の花瓶。
飾られている、二輪だけの蘭。
何かの、皮肉か。
「く、そッ!!」
花を見るだけで苛々する。
激昂をどうしても抑えることが出来ず、花瓶を振り払いって思い切り壁にぶつける。
「ッ?!」
だが振り払った力に身体が耐え切れずに、そのまま骸も地面へ強かに身体を打ちつけてしまった。
「ぐ…っ」
がしゃん、と近くで花瓶が割れたが、有様を見る余裕もないくらいの激痛が身体を襲い、震え苦しむ。
息もまともに吸えない。
ジャラ…と足枷が鳴り、また気分を悪くする。
きつく閉じたせいで傷付けられた右目がまた痛みを増して更に骸をイラつかせる。
こんなことを、こんなところでこんなことをしている暇などないというのに。
我を忘れそうな痛みと怒りと戦っていると、耳がかすかな声を拾った。
やけに陽気な、できることならばもう聞きたくはない声。
「やっほーむっくろくーん…て、またキミってばこんなところで何してるのさー」
一度通り過ぎていった白蘭はすぐに戻ってきて、呆れたようにまたあははと笑う。
何とか、何とか顔だけを起こして白蘭を睨むが、もちろん彼は毛の先程も痛がりはしない。
「絶対抜け出せないって言ってるのに。骸くんもがんばるねぇ」
脱走しようとしているのに、取り乱しも怒りもしない。
ただ骸がすること全てを愛おしそうに眺めている。
その様子が尋常とはとても思えなくて、鳥肌が立つ。
「ともかく、ほら。ベッドに戻ろうよ」
白蘭が近付く。
距離をとりたいのに、激痛で身体はまだ動けない。
噴出す汗すら拭えず、ひたすら睨む。
「さ、わる…な…っ」
「髪も乱れちゃったね。また梳かしてあげる」
慎重に白蘭は骸の身体を仰向けに起こし、背中と膝裏に腕を通す。
「ほら、お姫様☆」
「ッ」
25歳になるというのに、この抱えられ方。
痛くても何でもいいからこの体勢から逃れたくて暴れようとするが、逆に白蘭に引き寄せられてしまった。
「行動的なのはいいけどさー骸くんまだ重傷なんだし。あんま暴れちゃダメだよー?」

ベッドにそっと下ろされ、ほら。と腕をつかまれる。
つられて見てしまえば、包帯が紅く染まっていた。
「傷、開いちゃったよ」
あーあ。とそこで初めて残念そうな声を出し、白蘭は包帯を解きだした。
血の匂いが濃くなり、眉をしかめる。
この部屋に閉じ込められてから、いや白蘭がかまうようになってから血の匂いが鼻についてしかたがない。
かすかな血の匂いも嗅ぎ取ってしまう。
紅く重くなったカーゼを取り払うと、未だ血が止まっていない。
「…さっき転んだ時に打ったのかな?痣になってる」
指が傷口に触れられる。
どうやら花瓶を壊した時、うまいこと傷に当ててしまったようだ。
尚も骸が押し黙っていると、ぬるりと生暖かいものが傷口に触れた。
眉をしかめ見てみれば、白蘭が傷口に舌を這わせている。
抉るではなく、ひたすら優しく。
慈しむように、祈るように。
骸にとってただ嫌悪の行為でしかなくても、ただ優しく。
「暴れないね」
呟かれ、だが骸はだんまりを決め込む。
白蘭は血で濡れた口をペロリと舌で舐めると、ぎしりとベッドを軋ませて骸に顔を寄せる。
右目に包帯越しに唇を当てて、唇にキスを。
血の匂いが濃くなる。
鳴れている筈なのに、気持ちが悪い。
触れるだけで、唇は離れていた。
「従順になれば、僕が飽きると思ったのかな?」
思った。
そのまま手放してくれれば、一番ありがたい方法だった。
殺されるのはまずかった。
まだ成さなければならないことが山のようにある。
けれど可能性はひとつずつ潰していくしかない。
潰すため、骸はこの二日間彼の舌を噛まなかった。
必死に嫌悪を抑えて、抵抗をやめた。
「うん。まぁ僕ももしかしたらーって思ったんだけどさ」
つい、と白蘭が乱れている髪先を指でつまんだ。
そのままわざと骸の肌に触れるように撫ぜて整えていき、首筋を辿って長い後ろ髪を梳く。
する、する、する。
先まで梳けば、光に透けてどんどんと指から抜けていく。
気持ち悪いその手から逃れたくて、けれどなんとかその気持ちを抑える。
「全然そうじゃなかったよ」
傷を避けるようにして、ゆっくりとやわらかく抱きしめられる。
「―――――」
白蘭の言葉を捕らえきれずにいると、耳に唇が当てられ、そのまましゃべりだした。
「なんだろ。やっぱ好きなんだよね。骸くんのこと好きでたまんないや。大好きすぎて、しかたない」
舌打ちをしたい気分だ。
ちゅ、と音を立てながら耳にキスされ、その唇がまた唇を塞ぐ。
今度はいつものように舌が侵入してきた。
ガリ、と噛む。
従順になって逃れられないのなら、抵抗しない理由がない。
いつものように噛んで、だがやはり白蘭は血を流しながらもキスをやめない。
骸の熱を、粘膜を、味を、匂いを感じてうっとりと恍惚している。
鉄錆が口内を支配する。
(きもち、わるい…)
吐き気に思わず目を閉じると、それをどうとったのか白蘭はキスを更に深くし、骸の舌を自分のに絡める。
抱く腕に力が篭る。
「…ぅ…ッ」
痛みと吐き気に思わず呻いてしまうと、慌てて、と言った様に白蘭が身体と唇を離した。
訝しくて見てみれば、白蘭は危ない。と息をついていた。
「あー…。あー、やば、危なかったー。もちょっとで理性ブチ切れてた」
「……」
「ほら、やっぱ無理矢理セックスってよくないじゃん?骸くんが僕のこと好きになってからじゃないとさ」
言葉が出ない。
白蘭が発するその一言一言の狂気に、ふとすれば震えてしまいそうになる。
「…ではあなたは一生一人で処理することになるんでしょうね…」
声を抑えて皮肉を言っても、白蘭は話しかけてくれて嬉しいとばかりに笑みを深くするばかり。
力が篭っている手をそっととり、手の甲にキスをする。
「…『活性』でなら骸くんの痛みもパーって楽になるんだろうけど…元気になったらちょっとやっかいそうだから、我慢してね」
その代わり、できるだけ不自由させないようにするからさ。
「…ではいつになったらここから出して頂けるんですかね…」
いいことを聞いてくれた!と言う様に白蘭は骸の手を自らの頬に当て、にこりと笑みを深くする。
「それはもちろん!キミが僕のことを愛してくれたらだよっ!」

ああ、それこそ一生逃れられない、継ぎ目のない鉄枷。