その日はどしゃぶりだった。
穿つような雨は一粒一粒が冷たく、命のぬくもりを少しずつ少しずつ奪っていく。
けぶるモノクロの街で、蹲った彼女は鮮やかな眼をこちらに向けた。


―――助けて下さい。
―――私はまだ、国でありたいのです。


 エーデル・クラウン


リヒテンシュタインの具合が良くなる頃、スイスに一つクセが出来た。
「ああ、ここにいたのか」
すっかり耳に慣れた声が届き、リヒテンシュタインは手紙から顔を上げる。
「スイスさん」
捜していたのか、スイスは少し汗をかいて暑そうにしている。
はぁ。と大きく息を吐き整え、リヒテンシュタインの肩に若草色のストールをかけた。
「まったく。こんな薄手で外に出てはいけないというのに。体調も完全に戻った訳ではないんだぞ」
「ぁ…すみません…でもここ、とても気持ちよくて」
スイスの家の庭にある、主のようにまっすぐと立った木が彼女のお気に入りの場所。
そよそよと風を気持ちよさそうにうける姿を見て、ム…と口をつぐむ。
自国を誉められ、照れはすれども嬉しくない筈がない。
「…ともかく、部屋に戻るぞ。過ぎれば毒になる」
「はい。わざわざすみません」
差し出されたスイスの手。リヒテンシュタインは、躊躇うことなくその手を取る。
あまり大きくはない。けれど、しっかりとした強さを持つ手。
リヒテンシュタインは、その手に包まれるのが大好きだ。
当然のように差し出してくれるその手が嬉しくてたまらない。
(スイスさんは、優しい人)
もちろんリヒテンシュタインは、スイスの優しさが他に向けられないことを知らない。
守るように一歩前を進む背中を見ながら、暖かい気持ちに包まれる。
「そういえばリヒテンシュタイン。先程何を見ていたのだ?」
思い出したように振り返る。
「ああ…これですか?…侯爵様からのお手紙です。国勢もかなり落ち着いてきたようで…スイスさんにとても感謝しておられました」
「…別に我輩は…当然のことをしたまでである」
「ですが、そのおかげで今私はここにいられます」
白魚のような手で、スイスの手を握り返す。
小さな、けれど暖かい掌から鼓動が伝わってくる。
ベッドで臥せっていた時は今にも消えてしまいそうに冷たかったのに。
心の底から安堵する。
「本当にありがとうございます」
「……うむ…」
とてもくすぐったい。
彼女の言葉には嘘も含みもなく、ただストレートに伝わってくる。
「そういえば、また私のおうちも作ってくださるそうで」
上がりかけた口角が、ガチンと固まった。
「多分、もう少しでこんなにもお世話になることもなくなると思います。…本当に迷惑をかけてばかりで…」
「…別に、そんなこと思った事はない」
ボソリ呟く。
それは幸いか、リヒテンシュタインの耳に届いた。
「いいえ。我が国を助けて頂いただけでなく、おうちを失くした私をこうして住まわせて頂いて…どうやってこのご恩をお返しすればいいのかわかりませんわ」
「別に見返りが欲しくて助けたのではない。国として当然のことをしただけだ。…気にするな」
「…スイスさん…」
そう。別に見返りが欲しい訳ではない。
隣国の、生まれて三百年足らずの彼女をあのまま見過ごすことがどうしても出来なくて。
「――――」
リヒテンシュタインを見れば、ふんわり笑ってくれる。
笑顔を向けてくれることがただ、嬉しかった。


彼女の姿を見たのは一度きり。
永世中立国と認められたウィーン会議でだった。
リヒテンシュタインが誕生した頃にはすでに神聖ローマ帝国の家から出ており、以降各国々との関係が良好でなかった為その姿を見ることはなかった。
けれど何故か印象は消えなかった。
月の光を思わせる髪に、春の湖面を映した瞳。
再び会った彼女は瀕死寸前で、美しい髪も服もボロボロ。ただ翠の瞳がゆらめいていた。
「…たすけてください…。わたしはまだ、くにでありたいのです…」
雨音に消されてしまうくらいの、か細い声。
聞いた途端、利益より先に思いが動いた。

「…………」
古びた椅子は、スイスが動くたびにギシリと鳴る。
大戦は、永世中立国のスイスにもその火を浴びせ、かなりの痛手を伴った。
食料は備蓄していたが、限りがある。
それをリヒテンシュタインの国民にも与えたのだから底をつくのも早い。
切迫しているが、リヒテンシュタインにはもちろん内緒だ。これ以上心を痛める必要はどこにもない。
(…何故、我輩はこんなに心配しているのだろう)
栄養を摂らないリヒテンシュタインの身体は折れてしまいそうな程細かった。
スイスが看病して血行は大分良くなったが、今も時々ふらついている事を知っている。
国同士の緊張状態は継続しており、ここでリヒテンシュタインを家に戻せば同じようなことになるだろう。
しかし国のことは国でなんとかするもの。
事実スイスもそうやって戦いを潜り抜けてここにいる。
自称とはいえ永世中立国を名乗っているのなら、それだけの力を保有するべきだ。
そう、頭ではわかっているのに。
切り離そうとすればする程、彼女のことが頭に浮かんでしまって。
「…はぁ…」
あと幾日かすれば彼女はこの家から出て行くのだろう。
らしくない。
自分の傍から誰かが離れていくことが寂しいなんて。

□■□

パチンとモヤモヤが弾けたのは、リヒテンシュタインが自国の印璽が刻印された手紙を受け取った時だ。
思い出したのは、彼女がこの家を去ると言っていたこと。
帰っておいでと書いてあれば、明日にもいなくなってしまうかもれない。
封蝋を開けて手紙を取り出す彼女に足早に近付く。
気付いたリヒテンシュタインは脅えること無くふわりと笑った。
「スイスさん」
「リヒテンシュタインよ」
「…はい…」
スイスの雰囲気が違うことに気付き、出しかけた手紙を再び封筒へと戻す。
「我輩と一緒にこのまま暮らさぬか」
「………………ぇ、?」
唐突。
まさにその一言に尽きるスイスの発言に、リヒテンシュタインは咄嗟に反応が出来ない。
リヒテンシュタインのきょとんとした顔を見たスイスは、耳に入ってきた自分の言葉を反芻し、噛み砕くいて飲み込むように理解した。
「ッ!あ、や、だからその、だな!」
スイスが珍しく取り乱すのを、リヒテンシュタインははしはしと大きな目を瞬かせて見ていた。
「…それは…結婚のお誘い…でしょうか?」
「違う!」
思わず強い口調で言ってしまい、すぐに我に返ってリヒテンシュタインに謝る。
「す、すまん…」
「………」
そんなスイスの姿を見たことが無かったリヒテンシュタインは、驚いて言葉が出ない。
くしゃりと前髪を見出し、得意でない言葉を紡いでいく。
「…我輩はお前を手に入れたい訳ではない。…ただお前は永世中立国を名乗るにしてはまだ準備が出来なさすぎている。だから同じ永世中立国として自身を強くしてほしく…その間我輩が面倒を見てやってもよいと…」
「……お気持ちはありがたいです。とても。でもそこまでお世話になる訳には参りません」
リヒテンシュタインはきっぱり断る。
スイスの後ろ盾があれば、どの国もヘタに手を出せなくなるというのに。
せめて戦争が落ち着く間だけでも。
口を再び開こうとし、落としていた視線を上げる。
「――――」
射抜かれた。気がした。
普段おっとりとした瞳。
翠の、春の湖面を映した瞳は、まっすぐに強い意思を持ってスイスを見ていた。

―――助けて下さい。
―――私はまだ、国でありたいのです。

あの時も、今にも消えてしまいそうな声とは裏腹に、眼から火は消えていなかった。
なんと言うことだろう。
自分こそがリヒテンシュタインを見下すようなことをしていたなんて。
「…すまない」
「スイスさん…」
「違う、すまない、そうじゃないのだ…ただ、我輩はお前が心配で……お前と一緒にいたいのだ……」
リヒテンシュタインの顔が見れない。
ただ、頬が燃えるように熱かった。
「何故…私など小さい国にそんなに良くしてくださるのですか?」
「、」
何故と問われ、わからないと思う前に、数百年前の彼女の幼い顔が蘇った。
次いで、傷付き倒れたリヒテンシュタインの姿が。
ベッドの中、迷子のように彷徨わせた手を必死に握ってやった。
「お前はうなされながら、国でなくなることが怖いと言った」
「え、」
「国民をあのままにすることが、まだしなければいけないこともあるのに、このまま消えてしまうなど嫌だと」
熱に浮かされながら、涙を流してそう訴えた。
「街でお前を見つけた時も、まだ国でありたいと言っていた」
小さな手を握り締めて、大丈夫だ。なんとかしてやる。と何度も何度も伝えた。
あの言葉を、ただの慰めで終わらせたくない。
「…我輩も、お前が消えるのは嫌だ」
ウィーン会議での彼女はあまりに小さかった。
(そうだ、ずっとずっと、心配だったのだ)
「だから我輩はお前を守りたい」
風に吹かれ、草木が鮮やかな音色を奏でる。
スイスは、リヒテンシュタインに負けない鮮やかな瞳でひたりと見つめる。
「お前の兄に、ならせてはもらえないだろうか」
大きく丸く、リヒテンシュタインが眼を見開いた。
桃色の唇が震えている。
「…それ、は…」
ようやく聞こえたリヒテンシュタインの声は、今までになく戸惑っていた。
「兄妹になる…ということでしょうか…?」
「う、うむ……そうだ…」
改めて、妹か。と思えば、なるほどコトンと心に収まった。
「…まぁ…」
「?」
震える声に、思わず顔を上げる。
リヒテンシュタインは薔薇色に頬を高揚させ、小さな手で押さえている。
「スイスさんと兄妹に?…何て素晴らしいことなんでしょう!」
「ッ」
嬉しそうに、それはもう嬉しそうにリヒテンシュタインは笑った。
「ずっと思ってたんです。スイスさんと一緒にいれたらどんなに楽しいでしょうって。…でも見ての通り私は弱いので…ご迷惑をかけるばかりですし」
「そんなことはない。…わ、我輩とてお前が必要だ」
顔中熱い。
けれど建前では彼女はこのまま離れていってしまう。ならば燃えてしまっても本心を明かしておきたい。
「嬉しい…私、そんな風に言われたの、初めてですわ」
「…我輩だって、お前みたいに接してもらえたのは初めてだ」
「皆さん、スイスさんのことをわかっていらっしゃらないのね。もったいない…」
まったくだ。とスイスは言えない。
好かれない原因を作っている自覚があるからだ。
「スイスさん。本当に、本当に私でいいんですか?きっと迷惑ばかりかけてしまいます」
「…お前が妹になってくれたら、我輩はとても嬉しい」
「……では、…では、お兄様、とお呼びしても?」
「…兄妹、になるのだからな」
んん、と咳払いする。
リヒテンシュタインも緊張しているのか、幾度も深呼吸をし、胸元で手を組んだ。
「…おにいさま…?」
「…なんだ、リヒテンシュタイン」
花が綻んだ。
「ふふ、どうしましょうお兄様、どうしましょう」
「どうした?」
輝く笑顔を浮かべ、綺麗に染まった頬を押さえる。
「頬が痛くてたまらないんです。ああでも、どうしましょう。嬉しくて、戻らないんです」
どうしましょう。
困ってる様子は微塵も無い。
こんなにはしゃいでいるリヒテンシュタインを見るのは初めてで、よかったと心から思う。
「…それで、家なのだがな」
「え?…ああ、そうですよね。どうしましょう…でも私、お兄様と一緒が…いいです…」
やはり迷惑かしら?そんな不安そうな視線でこちらをチラリと見る。
「…我輩もだ」
クシャリとつやつやの頭を撫ぜれば、またリヒテンシュタイは頬を痛くする。
「実は我が家もいろいろとくたびれておってな…戦いに区切りがついたら建て直そうと思っていたのだが…」
んん、と再び咳払いをする。
やはりこそばゆさが抜けない。
「…国境に家を建てぬか?」
「国境に?」
「うむ。…一緒に住むにはそこがいいだろう。お前の国側と我輩の方と扉を二つ造って……って、リヒテンシュタイン!何を泣いておるのだ!!」
ぽたぽたと光る雫に、スイスはサァと顔を青くする。
「ななな、何かあったのか?…やはり国境に造るのは嫌か?」
リヒテンシュタインはただ首を横に降る。
喉が震えて言葉にならない。
慌てるスイスは、まだ知らない。
嬉しくて流れる涙もあることを。

 




□■□

「リーヒテーンちゃ〜んっ」
短い髪。お気に入りの青いリボンを揺らして歩いていると、猫撫で声でフランスがふらふら寄ってきた。
「あらフランスさん。ご機嫌うるわしゅう」
「うんうんリヒテンちゃんも相変わらずかわいいねぇ。今日スイスはどうしたの?一人?」
「はい。買い物に来ただけなので…もうそんなに子供じゃありませんわ」
「そうだよねぇ子供じゃないよね。…じゃあさ、リヒテンちゃん。大人のデートを俺としてみな セダーン!! …ッッッ!!!!」
チュンッと頬を弾丸が掠めていった。
焦げ臭い。きっと髪も焼かれた。
「…フランス…お前リヒテンシュタインに何をしておる!!!」
地を這う低い声にガタガタと震えが止まらない。
対してリヒテンシュタインは、後ろから聞こえた大好きな声にパァと笑顔を浮かべた。
「お兄様っ」
銃を収めるスイスに何の脅えも見せずに近付く。むしろ、嬉しくてポンポポンと花を咲かせている。
「リヒテンシュタイン!こういう輩には近付くなと言っているだろう!」
「でもフランスさんは同じ国ですし」
「そう言う問題ではない!…いや、こいつには特に近寄るな!フランス、お前も次にリヒテンシュタインにヘンなことをしてみろ。今度はその頭に穴が開くぞ!!」
「……は、は〜〜〜〜〜い…」
返事しても、懲りるフランスではないが。
「行くぞ、リヒテン」
「あ、はい。フランスさん失礼します」
「あいつに挨拶なぞしなくていい!…それからフランス!」
「はひぃぃいい!!」
スイスこえーと立ち去ろうとしていたフランスは、再び怒鳴られて情けない声を上げる。
「リヒテンちゃんなどと気安く呼ぶな!リヒテンシュタインと呼べ!そう呼んでいいのは我輩だけである!」
行くぞ。と、今度こそスイスはリヒテンシュタインの手を取って歩き出す。
「まったく…フランスめ懲りずに…!」
ブチブチ言うスイスの後姿を見て、リヒテンシュタインは笑顔を漏らす。
子供扱いをして欲しい訳ではない。けれど、申し訳ないと思いつつもスイスから心配してもらえる事が数十年経った今でも嬉しくてならない。
「…お兄様、お兄様」
「ん?どうしたリヒテンシュタイン」
その声が、自分にだけ優しくなることも最近知った。
独り占め。いけない子。でも嬉しいの。
「今日はおやつにエンガディナー・ヌッストルテはいかがでしょう」
「うむ…よいであるな。お前の作るトルテはうまい」
自然スイスから笑顔が浮かぶ。
いけない子。けれど幸せ。
当然のように手を繋いで歩いてくれる。
離さないでほしいから、そのクセはずっとリヒテンシュタインの胸の中。

看病から生まれたということは、思い出だけが知る秘め事。


*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***


兄妹の歴史
1648年 スイス、神聖ローマのおうちから独立
1719年 リヒテンシュタインの始まり(神聖ローマのおうち)→本家的に言うと、国の元のようなもの
1806年 リヒテンシュタイン独立国へ→リヒテンシュタインの名前をもつ
1815年 ドイツのでっかいおうちに入る→ウィーン会議でスイスが会ったのはこの時
1914年〜1918年 WW1中経済封鎖にあい飢餓状態に。スイスに救われる
WW2前にスイスとリヒテンシュタインの国境に二人のおうちを建てる
大戦後、リヒテンシュタイン髪の毛をスイスとお揃いに。

エンガディナー・ヌッストルテ…スイスの伝統的なお菓子。 バター分の多い生地に胡桃がたっぷり入ったヌガーをつめたケーキ。


リクエストは涼凪さんから頂きました!
ありがとうございます〜☆
初めての兄妹話ということで、口調がぎこちなくなってしまってすみません(汗)
↑のは、あくまで私が(こうだったら萌えるなぁと)設定した年表です。
スイスとリヒテンシュタインが顔一回だけしか会わせてない設定使いたいけど…無理だろうなぁと思って調べてたら
本当に一回しかあってなかったっぽい。
いや実際何らかの交流はあったかもしれないけど!
それにしてもどうしてスイスは隣国といえどリヒテンシュタインを助けようと思ったのか…。
いずれにしても幸せな方向に考えは辿り着きました(笑)
だって自分の国だって苦しいのにスイスったら…!(ゴロゴロゴロ)
お兄様と呼ぶようになった経緯とか、何で一緒に住んでるんだよぉぉおぅう!とか、スイスってば当然のように手を繋いじゃって!)とかいう悶々発散してみました!(笑)

そそそそしてリクエスト頂いただけでも幸せなのに挿絵まで描いて頂けて、私幸せで死にそうです…!!
ほぎゃー!素敵兄妹本当にありがとうございます〜!!